神戸の背山六甲山系は日本の登山の発祥地であり、その流れがつづき今も登山が盛んです。私も初めての登山には芦屋からのロックガーデンやトエンティクロスのハイキングでした。
120年くらい前、この登山を伝えた外国人の一人であるH.E.ドーント(H.E.Dahnt)が良く好んで歩いたやせ尾根がドーント・リッジと呼ばれ、今も登山愛好者の隠れたルートとなっています。
アイス・ロード、シュライン-ロード、ダイヤモンド-ポイント、トエンティクロスなどカタカナ名の地点や道名は彼らによって名付けられた。
棚田眞輔編著「神戸背山登山の思い出」
(交友プランニングセンター、1988) -----この本より引用すれば
H.E.ドーント氏らが歩いたある日の記録にはこのように
1914年2月14日
ドーントとワーレンが2時15分とりき通りで出あい、犬も一緒に再度へ
行くかのように布引の下の道を貯水池を回って、小川を横切り右に急角度
に回りこみ天狗道の延長を越えて行き、楽しい登攀を約1、800フィートし
て高尾山の頂上に行く。ド−ント・リッジで苦労を重ねたのち川底に降り、
トエンティクロスに行く、キジの汚物を浴びて「キジの大通り」と名付け
られたところを過ぎ、天狗道を近道してトエンティクロスヘ急いだため
ひっくりかえることになる。再度に登り、帰りは火葬谷の道を通る。
神戸徒歩会機関紙『ペデストリアン』に1917年1月21日付で掲載文章より
山男たちの嶺
「関心を持たれるお方もあるかもしれないので、去る3月のある日曜日に、B.アブラハム氏、安積氏と私とが峻険に首尾よく登った話を簡単にしておこうと思う。
この山は木こりや荒々しい山男たち以外は滅多に足を踏み入れないところで、ドクターの頭(天狗塚)の後にあって、それよりもやや低く、「RA.0.M.G.」の会員の間では一般に「山男の嶺」で通っている。
私たちは午前9時に新在家を出発し、2つの渓流の合流点までアイスロードを歩いたが、この地点は、土橋茶屋から数分のところにある。右側の分流は、アイスロード沿いに流れ、左側の分流は、天狗塚とこの「山男の嶺」の間の谷に源を発している。
私たちは後者を進んだ。そしてこの地点より約15分から20分間お定まりの「木こりの道」を歩いた後、実際に登り始めたのであるが、四つんばいになって、水の涸れた川床を進み、とても急な突出した尾根をザイルの助けを借りてよじ登った。
ザイルはこの登攀をするため皆さんがお貸しくださった品で、一度ならず大変役にたった。遂に、私たちは頂上の少し東にある尾根に出て、そこから、南真正面の方角に、天狗塚の最高峰が見えた。「山男の嶺」の頂に立ったのは午前11時で、出I発点から2時間かかっていた。やせ尾根には越えねばならない危険なところが2〜3ケ所ある。その一番の難所は鞍部だと思う。
そこは柔らかい土ともろい岩石でできていて良いナイフのような背になり、両側は、数百フィートの険しい崖になっている。この地点は、「山男たちの試金石」と当然名づけてもよい場所であるが、50〜60フィート降りれば通らなくてもすむところだ。
体重の軽い「山男」氏たちならば、ザイルを使わないでこの「山男の嶺」を踏破は出来るが、「慎重さは勇気の必要なる要素である」と言っておかなければならないと思う。
日本最初の近代登山
・ウォルター・ウェストン氏は、
1888年- 1894年に、宣教師として日本を訪れ神戸に滞在。
1902年- 1905年に夫人と共に2度目の来日し、横浜市に滞在。
1911年- 1915年に、再び横浜市に滞在。
・1905年にウェストン氏のすすめで「日本山岳会」が結成され、彼は「近代登山の父」と呼ばれています。
・H.E・ドーント氏は、
1904年の来日の際は、ロシア系英国人で日本に来る前はセイロンの紅茶貿易で成功し石油会社スタンダード・バキュームオイル社日本支店の総支配人を務めていた。
彼はスコットランドでゴルフを覚え、来日してすぐに神戸GCに入会し、世界中のコースを渡り歩いていた下地があった為、クラブ随一の名手として名を馳せている。
・1905年、H.E.ドーント(ドント)氏を中心とした在神外国人によって、「The Kobe Goat Mountain Club」が創設され、ゴルフのシーズン・オフに六甲山の登山がはじまりました。
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