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波賀富士(城山)

兵庫県 宍粟市波賀町  標高458m 

2010年07月07日(水)  くもり時々晴れ  気温  33℃
yama

かって城山(じょうやま) の山頂に波賀城がありました。(説明は下記)

昔は麓から登山の道があったのですが山頂の史跡公園まで車道が作られてらは、歩いて登る人もだんだん無くなり道が消えています。
車で公園の駐車場まで行くと再建された櫓まで10分程度で着くことができます。

波賀城史蹟公園(はがじょうしせきこうえん)

  波賀城の入口に設置されていた案内板より引用

十一世紀の初めの頃までに、私達のこの地域は、伯可荘として石清水八幡宮の荘園になっていました。
  この地には有名な名馬の伝説があります。【その昔、芳賀七郎という武士がおりました。彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいましたがとうとう力尽きて戦死してしまいました。。。。。。。。】
  伝説の芳賀氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。
  十三世紀の中ごろ、地頭としてこの地に移って来たのが中村氏や大河原氏です。彼らは鎌倉幕府の御家人で秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党、丹治氏の一族です。中村氏は初代の光時から戦国時代末期の、吉宗まで二十代にわたって波賀城主であったといわれます。波賀城を修理・拡張し、これを拠点として波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。羽柴秀吉が播磨を制圧した時に、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられます。
  この城は山陽道と日本海側を結ぶ因幡街道や、それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、途中に多くの「郭」を作って縦深をとっています。
  また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。復元された城の石垣は中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張りとともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。
  平成二年三月、波賀町では、地方の時代をめざす、ふるさと創生事業の一環として、波賀城史蹟整備に取り組むことを決め、城蹟整備専門委員会を設置して、文献、古文書など考古学的及び地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、城山の山頂部分を中心とする城郭遺構とその縄張りと、山麓部の製鉄遺構の発掘調査等を行いました。このことから波賀城蹟は、それが波賀町の史蹟の中核であるだけでなく、裾野の広い史的遺産を含んでいることが確認され、城蹟の整備はそれ等の歴史的、文化的遺産の更なる調査と保護をも含めて実施されるべきものと結論を得ました。このたびその第一期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、町民が町史を学ぶ、心のよりどころの場となって、永く後世に活かされてゆくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。      
                                    宍粟市

 

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国道29号線と429号線の交わる斉木口交差点のすぐ南を入り駐車場まで車で登って行く。

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 水平道をしばらく行き、坂を下ったところに管理事務所(無人)があり、波賀城跡と彫られた石碑があり前方に櫓が見えます。

 丸太で整備された下り道を行き櫓へのジグザグに付けられた急な階段を登れば櫓です。

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ここの斜面でタマゴタケを見つけました
yagura
眼下に町並みをぐるっと見渡せます 
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櫓の内部は学習資料館になっており資料が展示されています
階段を二階へ上がれば真っ暗、
窓を開けると光が差し込み
内部が明るくなり、見回してもがらんどう
panorama
波賀町の街並み(左右が国道29号、縦が429号)
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頂上のかって天守があっただろう地点には祠があります      美しいタマゴタケ(とても美味しいらしい)の幼菌

公園管理事務所で登山記念に記帳して帰りました。
記帳名はやはり宍粟の方がほとんどでした

 
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☆ はるばると 車で登る 芳賀の城山 ☆


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