2001年7月19日(木)
JR京都駅高速バスターミナルは大混雑であった。
暑い夜、ターミナルの内にも外にもザックを肩に背負ったり、通路に置いて座り込んでいる人人の群れである。私がターミナルに着いたのは午後10時を少し過ぎていた。
今回の鹿島槍ヶ岳に参加する8名の内私と中川夫妻が京都で乗車、他は始発の大阪から乗車する。発車定刻になってもバスが到着しないので、同じアルピコグループの京都発バスが2台駐車していたので、その運転手にどうなっているのか問うと「事情が判らないが、まだ大阪を出発していない」との返事が返ってくる。 中川さんが大阪の木下さんに携帯電話で呼びかけると、難波も暗いバスターミナルが同じように込み合っておりまだ出発していないと同じ答えが返ってきた。
例年より早く明けた梅雨が夏山の開始を早め、三連休の始まるこの日に出発者が殺到し白馬ばかりか、御岳や富士登山に乗鞍岳にと次から次へとバスが連なる。
白馬行きはバスが10台にもなったそうである。
2時間送れて深夜に発車したバスのエアコンが効かず暑苦しくて寝不足のまま、明くる朝早朝大町で下車。
2001年7月20日(金)
天気は快晴である。
大谷原までマイクロタクシーで移動し、谷川の雪解水で顔を洗い涼しい緑の大気を吸い込むと寝不足も吹っ飛んだようだ。
前方に鹿島槍の一峰と爺ヶ岳への稜線が青空に聳えている。私にとっては重た過ぎるザックを肩にすると果たして山頂にたどり着けるだろうかといやな予感が私の頭に一杯になってくるのだ。
先々週、トレーニングとして摩耶山に布引から天狗道を15kgの荷をかついで登り、その後遺症―筋肉痛が次の一週間私を悩ましたことがあるからだ。
(経験上、私が担げる能力は11kgくらいである)
二俣出会で悪い予感が的中し右の肩がしびれて来たので、奥野さんに救援をたのむこととなってしまった。そして分担の水2リッターも小屋で買う事に決め、今晩の焼き肉用の肉2kgを奥野さんのザックの中へ放棄してしまった。
すみませんです。
赤岩尾根は高千穂平までの急登とそこから乗越までの比較的ゆるい上部尾根に分かれるが、登りは約6時間を要する。
昨年登った甲斐駒ケ岳の黒戸尾根は標高差2,200mでこの赤岩尾根の標高差1,300mよりはすごかったのだが。
奥野、木津、日野の先行組と香月、木下、中川夫妻、佐々木のゆっくり組で進む。奥野さんは25kgくらいもあるザックをものともせずどんどん歩かれる。
17−8kgの荷を肩に木津さんも元気元気だ。それに引き替え私は13kgにあえいでいる。
朝あれほど晴れていたのに上部はガスの中で展望はさっぱりの状況となっている。
道の両脇には白い小さな5弁のゴゼンタチバナが目に付く。高千穂平で奥野さんが後続組を迎えに少し下降した間に大休止をさせていただく。
前方の大滝は流れ落ちる水が少なく迫力に欠ける。振り返れば大谷原の河原がはるか下方に望まれ、よくここまで登ったものだと思う。
合流後再出発。ここからも比較的ゆるい坂どころか、こぶをいくつも超えねばならず苦行が続くのだが高度計を見ながら、あと標高差100m、あと50mと自分に言い聞かせながら何度も休憩を取りながら登る。
稜線近くになるとハイマツや白山シャクナゲがかわいい。
乗越に先に着いていた奥野さんが剱が見えると私に呼びかける。
本当だ、稜線の東側はガスが次から次へと湧き上がっているが黒部川の大峡谷を挟んだ対岸は立山連山とその北に続く剱岳の荒々しい姿がくっきりと見える。
この大展望は苦しい登りに絶えたあと自然が私達にくれるプレゼントである。
30年以上も前に登った剱岳から見た後立山連峰の稜線に今いるのだと思うと、その若き日の感動がよみがえってくる。
稜線の左には爺ヶ岳、右には赤い冷池山荘と色とりどりのテント場が見えるが鹿島槍の双耳峰は残念ながらガスの中である。テントの中での焼肉のご馳走をいただくと夕闇がせまる。
太陽が剱岳の右に沈み行く光景を見つめる。
夕日が雲を赤く染めると、先ほどまでガスの中にあった鹿島槍の双耳峰が布引山の右に姿を現わし、振り返れば爺ヶ岳もわずかに赤く染まったかに感じる。
明日の朝の大展望を夢見て早々にシュラフの中へもぐり込んだ。
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