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鴻池(伊丹市)を歩く

2011年09月22日(木) 快晴 気温 26℃

隣町の鴻池(伊丹市)を散策しました

dohyoike
古い道標                   西池 奥は 黒池
jigenjikonoikejinjya
慈眼寺                鴻池神社
seisyushihi
清酒発祥の地              稲荷詩碑

伊丹市指定文化財 稲荷詩碑

この児童公園は江戸時代の豪商として知られる鴻池家の発祥地とされています。 東大阪市には鴻池家が開いた鴻池新田の会所が残り、国の重要文化財に指定されています。 鴻他家の由来を記したこの碑は、中国の古代貨幣「布貨」の形をした砂岩製で、花崗岩製の亀鋏(亀形の台石)の上に立てられています。上部の凸出部を篆額に見立て、右に「稲荷」、左に「祠碑」の文字を篆書で刻んでいます。
 
 本文は
 
 大坂の私塾懐徳堂の教授であった中井積徳(履軒)の撰文と筆になります。製作年は碑文の内容から、天明4年(1784年)から間もないころと考えられます。碑文の大意は次のとおりです。鴻他家は酒造によって財をなし、慶長5年(1600年)から200年も続いている。その初代は幸元で山中鹿之介(正しくは鹿介)の子孫であると言われている。鴻他家は、はじめて清酒諸白を製造し、江戸まで出荷した。近隣の池田・伊丹七難・西宮などでは鴻池家にあやかって酒遺業を起こした者が数百軒もあった。 鴻他家の屋敷のうしろには大きな他があり、これを鴻池といった。これは村の名の由来となり、またその名前を大坂の店の屋号として用いた。 鴻他家が酒遺業を始めた年、屋敷の裏に稲荷の祠を祀って家内安全を願った。幸元の子供らのうち大坂で分家した者は三家、そこからさらに九家が分かれた。大坂の鴻他家の富は莫大になっている。 宝暦13年(1763年)秋の台風で稲荷の祠が壊れた。 20年後、当主たちが集り、「先祖の遺徳を忘れてはいけない。祠を再建する費用はわずかであるが、一人だけが出せば、他の人は祖先の恩徳を忘れてしまう。皆で出し合おう」ということになった。天明4年に祠が復旧されたとき、それらの事情をすべて石に刻んで残そうということになった。幸元から数えて7代目の当主元長の子、元漸は自分(中井履軒)の弟子であったので、元漸の依頼によってこの銘文をつくった。

【本文翻刻】
鴻池山中氏之富以醸興也慶長五年至今殆二百載面醸不廃焉其祖日幸元蓋鹿之介幸
盛氏之孫云肇造双白澄酒面大轡其伝送関以東初也歩担次以馬駄其旁邑池田伊丹一
帯及灘西宮等以醸著名者亡慮数百家矣皆倣慕面起者今南海之帆陸続東筒面馳者莫
不酒之載也宅後有大池日鴻池是邑所以得名面浪華諸宗人又用為鋪号也始醸之歳舎
後祀稲荷以鎮宅及業日興乃以為神乃福祐也益処梼祀幸元諸子分居浪華者三家鰍初
亦皆以醸興皆小宗也其支派又九家面僕隷起家者不与焉今夫浪華鴻池氏之富甲于天
下亦能知敬宗無失礼也宝暦哭未之秋大風祠旁松折圧壊祠不改作者二十載於是諸宗
人相与謀目祖之徳弗忘也神之祐其可遺乎奉請新祠以緩後禄其費雖微一人承事其余
為忘祖平詰醵金命工咸日善天明甲辰祠成復旧観面有加焉石表石燈翼如也乃相与約
日後年祠有類坦者亦必以斯従事母使大宗独任也又日血紀諸石乎今之大宗子名元長
実為幸元七世孫其子元漸従余受業是歳仲秋余偶遊北山訪其居主人鱗我于池上奉家
牒面詰焉余既甘其酒面嘉其語也遂叙面銘之
   忠武震世者其角嶽々聖賢富家者其業突々天不絶善人後神壹荷降多福
   不然天下多富民執如山中氏子孫縄々莽華赫々者
                    浪華 中井積徳撰井書
平成20年8月
伊丹市教育委員会

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庚申塚(青面金剛)          力士塚(獅子渡藤次郎)

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昼の蟹定食は1250円よりあります

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